町家(まちや)の台所
 日本では、天皇の御所、将軍や大名の城を中心として町が発達しました。町には多くの人が集まり、商人や職人たちが、ひしめきあって暮らしていました。人々が暮らす町家は、通りに面する間口(まぐち)が狭く奥行きが長いのが特徴。表通りの近くは商売、奧が食事や就寝などの生活の場所となっており、一般的な農家に比べ広さにはあまり余裕がなかったようです。また、あまり裕福でない庶民は長屋暮らしで、それぞれの住戸は狭く、生活する場所としてはぎりぎりの広さでした(長屋と路地の暮らし)。このような町家も農家と同じように、中は土間と、板の間(または畳敷)に分かれていました。関西地方では、この土間が表通りと、井戸などがある裏通りや坪庭とを結んで通り抜けられるようになっており「にわ」(通り庭)と呼ばれました。このにわに、煮炊きをする竈(かまど)を置き、近くには燃料となる薪(たきぎ)や味噌や醤油(しょうゆ)などの瓶(かめ)、食器などが置かれていて、ここが今でいう「台所」の役割をしていたと言えます。
 この時代、火とともに炊事に欠かせないのが井戸。武家や裕福な商家では、専用の井戸をもつこともありましたが、長屋に住む庶民は、裏通りにある井戸を共同で使っていました。
 ところで、「台所」とは、平安時代の貴族住宅にあった台盤所(だいばんどころ)が略されたものと言われています。台盤所は、元は配膳(はいぜん)場所だけを指していたのですが、いつのまにか、炊事場全体を言い表す言葉になったようです。

「火を使い始めたころ」「農家の台所」「町家(まちや)の台所」